プロフィール

こんにちは

奇跡のHSPグローバルメゾットを提供しています、ニーズ代表カウンセラーのAKOです。

・インターナショナルスクールならではの悩み
・育児・子育てに悩み(いじめ・不登校・進学)
・ママ友、会社関係のお付き合など、人間関係の悩み
・海外生活で感じるストレス
・子供の将来に不安な方

このようなカウンセリングを提供しています

プロフィール

東京都で生まれる。
もともとHSP気質を持ちながら、機能不全家族(AC)に育ち、ずっと他人や親の顔色を気にしながら生きてきた。

1995年:出会いがあり結婚し、3ヶ月後に海外赴任する。
当時、会社の奥様会に入会しなくてはならず、奥様会の中で揉まれ苦労する。先輩奥様の顔色ばかり伺い、ネガティブ思考から抜け出せず、うつやパニック障害などの心の病を経験。

1996年:第一子が生まれる。その後、第二子、第三子と続けて生まれる。

1998年:旦那の意向により、幼稚園から子供3人ともインターナショナルスクールに通わせることにする。母親の私は英語ができない、相談できる日本人先輩お母様がいない、経験したことのない環境で、うつになりながら手探り状態で子育てする。

2008年:転校先の学校でも日本人グループPTAに入会させられ、そこでは数少ない日本人同士の人間関係に悩まされる。自分軸が作れず、他人軸中心の人生に、生きづらさをずっと感じてた。

そのうちうつ発症する。勇気を出して精神科の心療内科にも相談する。しかし改善されなかった。
別の「うつ」「パニック障害」の心理カウンセリングを受け、少しづつ学び始めることにより少しづつ改善され見事に克服する。

その後もさまざまな心理学、心理療法、カウンセリングを学び続け、セッションを始める。


2013年:海外大学受験をこの年から3回経験していく。3人ともインターナショナルスクールを卒業し、それぞれ大学に進学する。その後、現在3人とも社会人として働いている。(二人日本、一人アメリカ)

今現在:海外での生活やインターナショナルスクールでの子育てに悩むクライアントは国内のみならず、海外にも多数。10年以上のセッション経験を持つ。

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言葉の違いによるコミュニケーションの壁、不慣れな文化や生活環境への適応、海外で新たな仕事や職場で感じるストレスなど、海外生活には様々なストレスが付きまといます。

また海外のみならず国内のインターナショナルスクールに通わせてるお母様の悩み・狭い日本人グループでの悩み・先生や外国人お母さんとの関わり方・進学の不安など、一人で抱え込まず先ずはお気軽にコンタクトしてみてください。

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さらに詳しいプロフィール

1)生まれてきたが虚弱体質な子供

我が家では待望の第一子であり、一人っ子で育ちました。
しかし、未熟児で生まれて保育器に三ヶ月入っていました。その後、標準体重になり退院したものの小学校の低学年まではよく病院通いをしており、特に入園式や遠足、学芸会など行事の際に発熱し、行事に行けなかった記憶があります。

2)内向型の人見知りで常に顔色を窺う子供時代

家にお客様が来ても挨拶すらできず、カーテンの中に隠れてお客様が帰るのをじっと待っていました。
話しかけられても何を言って良いかわからず、恥ずかしくて、ぐずぐずして、いつも母が「ほら、ごあいさつ」「一年生です。でしょ」と言われて渋々言葉を発していました。

小学校の高学年になっても私の気質は変わリませんでした。またその頃父親は単身赴任で家を出、家には母と私の二人母子家庭となり、いっそう母は私の性格に、イライラしていました。

3)親や学校の先生から叩かれても、罰を与えられても当たり前の時代

よく親からも、言われたことをさっさとしないと叩かれたり、怒鳴られたりするのは当たり前で、グズな私はよく痛い思いをしていました。

小学校4年生にもなると、「〜ちゃんはお勉強ができる」「あなたはなんでできない」「〜ちゃんはお母さんが何も言わなくてお手伝いをよくする」など、母が仲良くしていたママ友の子供との比較がひどくなりました。

比較され否定されるというのは非常につらく、どうしたらお母さんを喜ぼせることができるのだろうか。どうしたら気に入られるだろうか。と顔色を伺っていました。

この頃からでしょうか、自己否定しながら、そして他人軸で生きるようになっていったように思います。

4)小学6年生の時転校し、いじめの対象となる地獄時代の中学生活

家庭の事情により小学校6年生の2学期に引っ越し、転校することになりました。
私が環境の変化に適応しづらいことや、転校したくないという私の心の言葉などは、
母に通じるはずもなく、ましてや言うことなんてできませんでした。

2学期という中途半端な時の転校でしたので、友達に入れてもらおうと必死に自分を押し殺し、人の顔色ばかりうかがって勉強に全く力が入リませんでした。


また私の中学時代は、日本全国校内暴力が流行っていた時代でした。
今では考えられないとは思われますが、窓ガラスがわれたことも。
学校内の木に火がつけられたことも。授業のボイコットなんで何度もありました。


その中でいつの間にか友達グループに裏切られ、私はいじめの対象となり、地獄の毎日でした。

5)初めての海外赴任 未知の地での孤独感の日々

高校、大学は人の顔色を伺いながらも無難に過ごし、26歳で出会いがあり結婚しました。
主人はその三ヶ月後に海外赴任を言い渡されました。

私の会社勤めが4年目で波に乗り、とても楽しい時期で会社を辞めたくはありませんでした。
しかし奥様はついていくのが当たり前だという時代であったため、仕事を辞めざるをえませんでした。

誰も知らない世界に飛び込み、ひとりぼっち。毎日帰りの遅い主人に感情をぶち当て何度喧嘩したかわかりません。

当時は今のようにコンピューター、携帯電話なんてない時代でしたから、無料のスカイプ、ライン電話なんてもちろんありません。一人寂しい時は国際電話をして気を紛らわしたところ、
一ヶ月後に10万円の請求書が来て、主人に大目玉で怒られた記憶が今も鮮明に思い出されます。


6)ご婦人会という試練 どんどんメンタル不調に陥る 

その他にも異国での言葉の違いによるコミュニケーションの壁、不慣れな文化や生活環境への適応、会社婦人会で感じる気苦労など、海外赴任には様々なストレスが付きまといました。

私の入った会社婦人会には50名ほどいました。
社長夫人をトップにその中には派閥もあり、窮屈で面倒で役員を任された時にはミスできない恐ろしい環境でした。

当時最年少だった私にとってこの婦人会は緊張しっぱなしで、言葉もでない怖い集会でした。
この当時、会社の婦人の中にはこのような海外での生活に順応できず、メンタル面や体に不調をきたし、日本にご帰国されてしまう方が他にもいらっしゃいました。


7)「えっなんでインターナショナルスクールなんかに入れるの?」
 ママ友のやっかみというものに翻弄される

   

子供が生まれて2歳になると、主人の意向でインターナショナルスクールに通わせることになりました。
インターナショナルスクールといえば、今ではイケてるように思い浮かぶかもしれませんが、当時は日本の教育の幼稚園に子供を通わせることが当たり前の時代でした。

出産前教室などで知り合ったママ友リーダーは仲間の前で「子供の日本語どうすんの?」「旦那が外国人だったらわかるけどなんで?」と言い放ち、リーダー以外の視線も次第に冷たくなり疎遠になりました。

私自身も元々語学なんて勉強したことなかったので、インターで子供とやっていけるのか不安でした。しかし小学校に行く頃はきっと日本に帰国し、日本の学校に通わせることだろうと思っていましたので、それまでの数年は頑張ってみようという感じでした。

しかし、本帰国が決まっても主人の考えは変わらず、そのままずっとインターナショナルスクールに通わせることとなり、新しい学校での狭い日本人社会で、とんでもない多くの試練が待っておりました。

8)新インター校での狭い日本人グループ内で悪循環にはまり鬱になる

新しく入った学校は、前の学校よりも随分と日本人の多い学校でした。
日本人グループの中で一人浮いては行けないと思い、いつもニコニコ笑顔で、なんでも快く引き受けるいい人になりきっていました。

ひと言できない時は「できません」と言えば良かったが、相手に悪いかなぁという気持ちが優先され、言えずに苦しみました。
そのため日本人グループのママ友が私に対する要求はどんどんエスカレートしてきました。

自分が大変でも協力なければ相手を傷つけるかもと思い、自分の意見を言えず苦しくなる。
相手が望んでいることをすぐに察することもできるため、それを知りながら無視することの罪悪感に耐えられない、という気持ちから動いてしまう。
このような他人軸でいる自分になっていました。

それが次第に積み重なるごとに、そのママ友を嫌いになって、
もう本当はお付き合いしたくはないのだけれど、、、
あの人がいなくなればいいのに、、、と思う。
しかしこんな風に思ってしまう自分にまた嫌気がさし、
自分てなんて心が狭いんだろう、、、
という感覚の悪循環、できれば会いたくない、でも断れない、会うと疲れる、でも断れないからまた誘われる、、、
というように、最悪の悪循環ロードが繰り広げられ、
どんどん相手が嫌になり、断れない自分のことも嫌になり、ついに人間不信に陥り、うつ病になり、閉じこもりの生活になりました。

9)心理療法で生きづらさを乗り越えられ、人生が変わってきた

心療内科でうつ病と診断されてから、指導されたことは「家でゆっくり療養」と「投薬治療」でした。
薬は「抗うつ剤」と「入眠剤」の2種類を飲みました。
診察では、毎回、普段の生活などを中心に聞かれ、アドバイスされます。
いろいろな種類の薬を出され、効きが悪い場合は量を増やされました。

その後、薬を飲み続けても”グズグズ考える思考”と“落ち込み思考”は変わらずで、
このまま心療内科で、自分の心が変化する感じがしないと気づき、
次第に心療内科からは足が遠のきました。
薬に頼らない別の方法を探すことにしました。

10)あきらめず心理学・心理療法を学び、悪循環の原因をさぐる日々

偶然にも私には、一人の出会いがありました。出会ったのが相談員をしているカウンセラーでした。その人は臨床心理士ではありませんでしたが、何年もカウンセリングを学ばれて、心の健康相談員をされている人でした。この人に出会えたことで、私の人生をかえることになりました。


実際にカウンセリングを受けながら、コミュニケーションについても学んでいきました。

そこには潜在意識に働きかける心理療法について学ぶとともに、私の苦手だった人間関係問題だけでなく子育て問題に至るまでの理由や、解決するための心の仕組みを学び、自分なりに理解していきました。 
さらに、心理療法を実践することによって、“落ち込み”思考の悪循環から抜け出すことができ、少しづつ外に出ることができるようになりました。


また子育てでは、よく話を聴く、伝える、察する。この3つのコミュニケーションを意識することで、人間関係はすごくよくなります。
親が子供の話をよく聞き、適切な対応や声掛けをする。子供の気持ちを察する。
すると子供の行動も変化し、元気になっていきました。
子どもの成長とともに”自立”も自然とうながされることを学びました。

11)多くの人との出会いと 学ぶにつれて多くの相談を受ける

相談員さんとの関わりで、多くの悩みを持つ人とつながりました。海外生活での問題、子供のいじめ問題、ママ友とのドロ沼関係問題、夫婦関係、インターナショナルスクールならではの学校問題、不登校問題などさまざまでした。

カウンセリングを学ぶにつれて、私に話をしたがる人が増えました。
「多くの方が未知の世界で頑張り、話を聞いてくれる人を求めているんだなぁ」と思ったのをよく覚えています。
それから私も話を聞ける人になりたい!そう思い始めました。

12)最後に

生きづらさの一つとして私の中には「〇〇ねばならない」という信念がありました。「一人で何でもやらなければならない」「一人でできなければならない」「完璧にやらなくてはいけない」ということが心にありました。

私たちは客観的に見てもらうことで、大きな気づきを得ることができます。

カウンセリングを受けたことで、一人でできないことも、助けを借りることで自分自身が成長できるということが分かりました。
このように考えられたことで、とても心が楽になり癒されることができました。

もっと早く相談員さんのカウンセリングと心理療法に出会っていれば、早く楽になれたのになぁ。早く出会っていれば、うつ病にならず、苦しい人生を続けなくても良かったのになぁ。家族に本当に迷惑かけたなぁ。もっと違う子育てができてたなぁと。
今思い出すたびそう思い、もう一回やり直したいなんて思うこともあります。

”時間というのは元に戻すことの出来ない貴重なもの” と感じています。


実際、ご相談していただいた方からも「もっと早く、この心理療法を知ってたらなぁ」というお声をいただきます。


海外では、日常で普通にカウンセリングを受けることができます。
同じように日本でも、早くカウンセリングが気軽に受けられるようになって欲しいという思いです。

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さて、私たちに与えられている時間は有限です。

カウンセリングや心理療法は初めてという方、他のところでは効果がなかった方なども
全力でサポートさせていただきます。
お気軽にお問合せください。

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海外・日本全国対応Zoomオンラインカウンセリング


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特に子育て中は親御さんの心のバランスと、心の余裕を取り戻すことが、子育てにおける秘訣だと思っています。
そして
子供さんが成長され振り返った時、色々あったが楽しかった子育ての思い出に変わることを願ってやみません。

ニーズカウンセラー代表 佐藤亜子(AKO)